道隆寺の
オススメ口コミ・紹介文
是非あなたの紹介・おすすめ情報を教えて下さい!(自薦、他薦どちらでもOKです)
真言宗御室派。桑多山安芸院道隆寺。大同元年(806年)弘法大師開基の薬王寺の後裔寺と伝わっていますが、天平年間(729年~748年)頃の瓦を出土しているので古くから寺院は在ったと思われます。平安時代中期の公卿、摂政関白 安芸国守 藤原道隆が長徳元年(995年)勅命により、この地に七堂伽藍を建て、道隆寺として薬王寺を再興しました。本尊薬師如来坐像は建仁元(1201)年作と分かる墨書がある古いもので、桧材で寄木造りで県の重要文化財に指定されています。他に仏像、古文書、棟札木版(道隆寺縁起)
など多くの文化財を伝えています。道隆は一条天皇の甥にあたり、娘定子が中宮として入内しています。一条帝に願出た薬王寺復興普請に関して道隆寺に伝承が残されています。寺がおちぶれ当時の本尊が路傍に立つまでになったころ、信心厚い村の娘が雨にぬれる本尊に自分の笠をかぶせ、田植えをしましたが、不思議なことに娘は雨に濡れる事は無かったそうです。その後、娘は美しく成長し、摂政関白藤原道隆の寵愛を受けるようになりました。娘の願いで薬師寺が再建されたと云います。娘のかぶせた笠の骨が道隆寺に今も残されているそうです。
中宮に仕えた清少納言が書き記した「枕草子」には一条帝時代の御所内の出来事が綴られています。一条天皇は御所内の猫を家族同様に大切にしておられた事が記されています。『枕草子』第7段「上にさぶらふ御猫は」で始る段では「命婦のおもと」と云う雌猫が五位の位を賜って御所内で大らかに暮らしていた様子が記されています。此れ以前に宇多天皇が御自身の日記帳に御所内の猫の様子を書き綴った文書等が存在しますが名前と位を賜った猫は此れが初めての様です。偶然、私の父が昭和30年代中盤当座の住居を建て付近町内に住んだ時期も、
先祖が本邸の護りとした飼猫(航海安全・山旅安全・倉物の護)と同じ種類が別に届けられ大切にして居りました。現在の道隆寺は当時の境内の何十分の一かに小さくなっているものですが、此の付近の霊峰「呉娑々宇山(ゴサソウザン682m)」への登山道が付近に有り、町内に所在したと云う「多祁理宮(埃宮)」に7年間駐留した神武天皇と東征軍が此の山に登って祭祀を行った伝承が有ります。「呉娑々宇山」に至る手前の頂に「岩谷山(磐余山)」と呼ばれる一帯が有り此処を祭祀の場とした伝承です
桑多山安芸院道隆寺は、総本山より古い寺で、真言宗御室派の寺院です。総本山はユネスコ世界遺産登録「仁和寺」で京都市右京区御室に有ります。第58代光孝天皇の時代に計画され子息の第59代宇多天皇に依り勅願寺として888年に完成。摂関家「藤原氏」に対して、式部職文官(学者家系文章博士)家出身「菅原道真」に重要官職を歴任させ登用しました。「寛平の治」と云われる善政を行った宇多帝は、摂関政治に左右され難い親政を定着させるため、自ら積極的に人材を登用し子息の皇太子敦仁親王に譲位し、早期に醍醐天皇として即位させています。自身は総本山「仁和寺」で以後過ごしています。「宇多天皇寛平御記全10巻」が日記です。
また現在の道隆寺近辺が「呉娑々宇山・岩谷山(磐余山)」への山麓に位置する一帯である事を考えれば、神武天皇を祭る「磐余の宮」で在ったと云う事も有り得ると思われます。また、当寺近辺旧字名が「御衣尾(ミソオ又はミソウ)」と表記する地名で、町内便覧には「本町一地域の地名である。往古より此の名此の文字を使用し、里人は昔神武天皇御駐蹕の際、着物を織りて献ぜしに始まると伝う。」 県内は神武東征の際上陸行宮場所の他内陸部分迄くまなく足跡と思しき伝承が非常に多く残っております。大国(言代)主命の出雲国との間で、安芸国治世を神武東征軍側に禅譲する事を認めさせる為国内を巡り人心を味方にする必要が有ったと思われます。