多家神社(埃宮) - 安芸郡府中町【エブリタウン】

多家神社(埃宮)

広島県安芸郡府中町

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多家神社(埃宮)の オススメ口コミ・紹介文

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記紀(御記・御紀)と奉じられる文献「古事記」、「日本書紀」に示される場所に「上古時代」から所在する神社です。式内社で「延喜式 名神大社」に列していました。現在の社殿は其の後裔社です。
(2014/09/10)
当社所縁の史跡巡拝経路は、最短の歩行距離経路です。未験の所在史跡を含む神域を囲んで巡拝すると完全。一鳥居から「貴船神社」巡拝し、石段上って「天神社」巡拝後、本殿・拝殿巡拝。此後本殿近くの「二の鳥居」手前脇を東北東方向へ下る坂道下り、T字分岐右手側の道を進むと、右手側に「神武天皇聖跡顕彰碑」が在ります。巡拝後、道なりに進み、「宮の町5」交差点を下らず直進して、中学校敷地際を右手に見ながら進み下ると、右手側体育館講堂脇に「松崎八幡宮史跡」が在ります。巡拝後西向きに下り151号右折し北上して、玉垣際沿いを歩き、東北東坂道下着上り、境内二の鳥居手前に戻り、二・一の鳥居順で当社境内出ると巡拝完了です。
mats:>当社所縁の史跡の拡大巡拝経路 (2014/09/09) 変更・削除
広島県安芸郡府中町内宮の町3丁目1番13号に在る神社です。古事記(帝記・本辞)上巻の「神代」に於いて①天地創造伝説、②国生み・神生み、③建速須佐之男命伝説、④天の石戸伝説、⑤八俣大蛇伝説、⑥大国主命国造り伝説、⑦国譲り伝説の結果による出雲大社の成立、⑧天孫降臨伝説に至り、⑨天照大御神が孫である邇邇芸命に神器を授け葦原中国(日本)の統治を命じ、⑩筑紫日向の高千穂久士布流多気に天降り吾田の地に宮殿を建設、⑪邇邇芸命の息子海幸彦・山幸彦伝説、⑫鵜葺草葺不合命が玉依毘売と結婚し5人の御子を生す処迄著され
mats (2013/05/18) 変更・削除
て前史時代の記述を纏めています。この末子若御毛沼命が後の初代天皇となる神武天皇で「主祭神」です。古事記(帝記・本辞)中巻・下巻では第33代推古天皇までの帝記と歴史が記述されています。中巻は神武東征伝説から始まります。3世代にわたる日向朝廷を継承した若御毛沼命=神倭伊波礼毘古命は、日本国の行政統治には西端の地である場所からもっと適した場所に移動する必要性を感じ、長兄らと相談の上供に船団と軍勢を率いて旅に出ます。日向港(大淀川河口)から船出して沿岸部を北上し「宇沙(佐)」に立寄り休息後「筑紫」
mats (2013/05/18) 変更・削除
「岡田宮」を建て1年間過ごし瀬戸内海へ入り沿岸沿いに進み「阿岐国(安芸)」に着き「多祁理宮(タケリノミヤ)」を建て7年間駐留しました。更に「吉備国」「高島宮」に進み8年間駐留しています。以降「浪速国白肩津(大阪)まで到着しましたが、先住民登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)と孔舎衛坂(クサエ)での戦いで兄の「五瀬命」が矢を受けて紀伊半島沿岸を南下中に傷が原因で戦死してしまいます。太陽に向かって戦う事の不利を「五瀬命」に指摘されていた一行は熊野に上陸しました。高天原の「建御雷之男神・建御雷神」
mats (2013/05/18) 変更・削除
が「高木神」「天照大御神」から応援を要請され、霊験あらたかな太刀「布都御魂」を「高倉下」を通じて届けさせました。同じく遣わされた八咫烏の先導で進撃を続け「忍坂」では土雲を平定し再び登美能那賀須泥毘古と対決します。この時敵の仕えていた「邇芸速日命(ニギハヤヒ)」が来て天つ神の御子の印を差出し帰順します。こうして「若御毛沼命=神倭伊波礼毘古命」は大和の畝傍に橿原の宮を建て初代天皇「神武」として即位しました。此処迄が神武東征の概略です。「阿岐国(安芸)」「多祁理宮(タケリノミヤ)」を建て7年間駐留した
mats (2013/05/18) 変更・削除
跡地に鎮座したのが歴史的に存在が確認されている「上古時代からの多家神社」です。御祭神は当初、阿岐(安芸)国開祖神 阿岐津彦命[天孫邇邇芸命に随伴した32神の1神『天湯津彦命』の子息] 他6柱でした。後に「神武天皇」と(配祀)「神功皇后」・「応神天皇」・「大己貴命」を御祭神に加え現在に到っています。少々ややこしいですが、当時から連続して続いて居た上古~平安時代上期迄の延喜式式内社で名神大社で在った「上古多家神社」は「現在の多家神社」そのものとは違っているのです。一般的伝説と云われている東征も有る程度、歴史的事実を繋ぎ合わせた実際の出来事の集合体である可能性が強いです。神武東征伝説に関しても1人の人間が名目上通して活躍し、
mats (2013/05/18) 変更・削除
記述の中に複数の挿話を加えたと見るのが自然です。広島市郊外の安芸郡府中町に所在したであろうと比定されている「多祁理宮と埃宮」は、同じところにあった行宮所と思われ「多祁理宮」の具体的な場所が判れば良いのですが「上古時代多家神社」鎮座時期不詳以降平安時代の859年(貞観元年)正月27日従五位下から従五位上表記は「多家神」に、859年(貞観元年)4月27日従四位下表記は「多家神」各々神階・神位が定義されて他と供に昇叙し始めた後、菅原道真が編纂し始めた「延喜式」が927年完成し、その神名帳に安芸国名神大
mats (2013/05/18) 変更・削除
社3社の1つとして多家神社の名が記され、伊都岐嶋神社(厳島神社)、速谷神社とともに全国屈指の大社とあがめられました。此れ以降「上古多家神社」は歴史の舞台から忽然と姿を消してしまうのです。平安時代貴族社会文化が藤原氏を中心として定着し、以降内裏での政治的な抗争を繰返すうち後半武士勢力の独立台頭を招きました。神社・神領を安堵する側、朝廷の統治力の低下を止めることが出来ず武家政権の出現に至ります。この間神社存続のため「松崎八幡宮」が登場し、同社に祭祀が引継がれたと見るべきです。政治は鎌倉時代から
mats (2013/05/16) 変更・削除
室町時代にかけて、一時親政等で持ち直す事は有ったようですが、室町時代も3代将軍以降政治が定まらず遂に「応仁の乱」に突入し、武家政権自体も戦国時代へと向かって崩壊して行く状況下で徳川幕府時代になると、安芸府中の街自体が南氏子(松崎八幡宮)と北氏子(総社)に分れ、互いに延喜式名神大社「多家神ないし埃宮」を主張して論争対立争いが絶えませんでした。元々安芸の国府は現在の東広島市西条町付近に在ったものを、有力な在庁の官人であった家柄の官吏が自分の執務に都合が良い、自宅屋敷の在る安芸府中に
mats (2013/05/16) 変更・削除
実質的に機能を移して行き国有財産である国衙の建物や国府敷地を損なう結果と成っていったようです。電子地図で御覧になるとお分りと思いますが、現在の府中町で県道151号線と152号線は一続きの道で、南は海田市駅山側旧道から船越峠を経て、浜田本町から真っ直ぐ北上し宮の町、本町、石井城、城ヶ丘、鶴江、温品、中山東・西・北・中町・鏡ヶ丘等を経て戸坂安芸大橋を渡り、古川大正橋、西原、安佐南郵便局脇を経て通称祇園社(安神社)に向かう律令官制時代の太宰府への官道であり、広島城下が出来る以前の古代~中世迄の西国街道
mats (2013/05/16) 変更・削除
(山陽道)の旧道です。府中町内北面に向かって通行する方向が太宰府方向となります。町内の進行方向左手側つまり西側は潟湖で、陸地は無かった地形です。右手側の東側にだけ、陸地が広がる地形でした。国府を置く事の最低限可能な八町四方の広さの開けた土地等は無く、四町四方(440m四方)が限度です。方格地割も無いです。最小規模の規格の広さの国府域の4分の1位の広さしかないのです。官道の東側に広島県住宅公社と云う部署が開発造成を昭和30年頃行った城ヶ丘と云う住宅団地がありますが、此の時停留所近くの畑や田の発掘調
mats (2013/05/16) 変更・削除
査が行われ、「安芸駅」の建物と付帯設備の遺構が発掘されました。此れ等は「駅舎建物」で国衙跡では無い事が判明しています。「現在の多家神社」から北東方向へ500mの処に「総社跡」が在り、南東方向へ500mの地点に「松崎八幡宮社跡」が在ります。「総社」は国府機能を自分の都合で移した在庁の官人が、国衙周辺に必須の「総社」を自分で作って祀った神社の可能性が有ります。国府本来の位置に建設された「安芸国国分寺跡」は、東広島市西条町吉行に比定地が特定されて居ります。またその真近には「御建(ミタテ)神社」が
mats (2013/05/16) 変更・削除
南向き鳥居で有ります。御建とは、国府の建物を尊んで呼んだミタチが変化したもので、この地にはかつて国府の中に祀ることを命じられた祇園社があります。周囲には大蔵、大地面(オオジメ)などの国府の存在を感じさせるような地名が多く残っています。近年、大地面で国府附属施設の特徴をもった建物跡が確認されており、今後の発掘と調査・分析が期待されています。府中町内に国分寺やその遺構は比定地は無いです。此処で由緒と成った「松崎八幡宮社」の紹介です。京都の「石清水八幡宮」の別宮として平安時代末頃から在った神社で、
mats (2013/05/16) 変更・削除
す。国衙領内で年貢を免除された免田が20町余りあり、戦国時代の検地でも社領が認められていました。玉勝院・神前坊・神力院・法寿坊・行專坊の五つの末寺を抱えていた神社で中世を通じて栄えた神社でした。此の神社の神職家出身「加藤九郎右衛門兼鎮」は商家も営み1500年代の後半、広島城下が建設される頃には、その商いが広島の地元資本最大の商社「猫屋」として知られて居りました。城普請の際城下に地元を代表する商家として勧招され、太田川本流部の西岸に面した広い敷地を与えられて商社として地位を築きました。本川橋は
mats (2013/05/16) 変更・削除
16世紀末期に豪商の猫屋九郎右衛門兼鎮(ネコヤクロウエモンカネモリ)が私財を投げ打って架けた橋で、当初は本川・本川橋も猫屋橋川とか猫屋橋と呼ばれていました。豪商の名前にちなんだ西の猫屋町は、本川筋に川渡しや警備の船が発着し、本川橋の橋脚下には、毛利輝元の島普請による石組が残り、雁木造りの荷揚場や、船をつなぐ石柱や船舶の燥場が護岸に設置され、今も遺構として存在しています。事業でも成功した人材を生んだ、松崎八幡宮社神職家ですが、江戸時代に入ってからは、境内社の一つ「たけい社」を「延喜式名神大社」の
mats (2013/05/16) 変更・削除
「多家神」存続社であると主張し、在庁官人屋敷近くの「総社」との間で正統社を競いました。明治維新以降も論争継続有る中、教部省は1873年決着方針を固めました。翌年1874年中間点宮の町3丁目に「近世 多家神社」を開き、合祀の上双方廃社としました。「松崎八幡宮社」は大規模な境内敷地に所在した神社ですが、跡地は宮の町5丁目と八幡1~2丁目が該当します。昭和38年町立府中中学校敷地造成時に埋立てられてしまい、僅かに玉垣と階段上の史跡跡「神武天皇東征行宮場所」の表示を残すのみとなっております。現在、「松崎八幡宮跡」は宮の町5丁目の一部分しか残っていません。
mats (2013/05/16) 変更・削除
広島県出先部門は、後々論争とならぬ様公式書類や所蔵の資料文書等文化財や学術資料等全て提出させ焼却したそうです。何と云う酷い愚かな決着のし方かと思います「近世 多家神社」には別に神職が任命され現在は「飯田家」が務めています。このため「式内社・延喜式名神大」である神社及び其の後裔社は「官・国・幣社」で在るのが相当ですが、同年に「県社」社格に列格しているに留まって居ります。鑑定技術の進歩を待つ事とし、未決とする方法も有った筈です。此れ等の歴史を踏まえて参拝してみて下さい。「松崎八幡宮跡」は宮の町5丁目に有ります。
mats (2013/05/16) 変更・削除
中学校の敷地内に唐突に「八幡山墓苑」や付近に「八幡」地名等ありますが境内敷地の名残です。山を背景に山裾から谷部分に境内敷地が広がっていたもので、山部分には墓所も有していたものと思われます。なお、正式名称は「多家神社(埃宮)-式内社 延喜式名神大 後裔社-」です。(読み:タケジンジャ (エノミヤ))- -で囲った部分は修飾表示ですので読みガナをフル必要は無いですが「-エンギシキミョウジンタイ コウエイシャ-」と読みます。
mats (2013/05/16) 変更・削除
私は文学部以外の卒業ですので、歴史は素人です。古事記(上巻・中巻・下巻)の解釈その他は、教わったものではなく自分自身の理解です。違った面が有れば悪しからず。私の父親は、経済学科の卒業者でしたが、4歳児の頃、書架に置いてあった対照式の書物が、古事記の講釈書のような書籍でした。素朴な目でで子供の頃読み下した儘の認識です。ギリシャ神話等の様に、亡父は国民の歴史書のような位置付けで子供に読ませていたものと思います。私自身学校教育場面では、教科書文献として目にする事は少ない物でした。
mats (2013/05/16) 変更・削除
行宮場所と連動した所在解釈には別の立場認識も有り、南北地域毎に長く暮らして居られる方々には気に障る記述も有るかも知れませんが、何の利害背景も無い私の立場で、素朴な目で歴史的な事実の一部を、自分なりに解釈して解説した物です。「けしからん」等と思わず容赦願います。両社の言い分や根拠等を吟味した経緯等まで蓋をして、2つ併せて真ん中に置いて結審と云うような、審理が尽くされて無い裁定で或る事が印象です。結果、県内に3社しかない名神大後裔社としての扱いも不十分なまま、100年以上経過して居る訳ですから。
mats (2013/05/16) 変更・削除
現在の「御建神社」は1910-1911年に現在地遷座したものです。「西条」と「吉行」に跨る地域に「御建(ミタチ)」「大蔵」「大地面(オオジメ)」が有ります。国府祭祀の神社で706年頃「御建神社」が元「御建」の場所に在ったと考えられます。「吉行」には「国分寺跡」が有り、国府に最小限必要な①「八町四方の大地面」、②「御建」と呼ばれる「国衙建物」の特徴点を有する遺構所在の確認、③国中の神社を1箇所に祀った「国府神社」(御建神社-祇園社)、④護国寺としての「国分寺」等々、の具体的な遺構と条件が揃います。
mats (2013/05/16) 変更・削除
安芸国は上国ですが、当時安芸郡府中町の「在庁官人屋敷」辺りでは四町四方が限度です。最小限八町四方の面積を必要としますが、4分の1しか無く、上国国府としては、非常に見劣りする構えです。律令期の国府形態からはかなり逸脱しています。つまり国守が都から赴任して来ず、国司遙任が始まり、在庁官人に実質的行政権が移りつつあった時期でした。有力者が自分の勢力圏へ国府を勝手に移したため、行政の私物化を生じましたが、「国分寺」「国府神社-祇園社」は勝手に移す事が出来ず、後裔寺/後裔社が現在迄場所を示した訳です。
mats (2013/05/16) 変更・削除
何れにしても「安芸国」の「式内社」は上国にもかかわらず、3社しかなく異常に数が少ないです。東征の際地元対処勢力が少ない纏まりの有った国とも云えます。ただ「式内社」で在っても、他所では稀な「名神大社」が3社100%で在った等は「国譲り伝説」の様な、統一過程で重要な出来事の有った国のようです。ちなみに、「備後国」式内社16社、名神大0社、「周防国」式内社7社、名神大0社、「長門国」式内社3社、名神大1社、「出雲国」式内社186社、名神大2社、「石見国」式内社33社、名神大0社、「隠岐国」式内社14社、名神大4社、 等。
mats (2013/05/16) 変更・削除
参詣に出掛けられる時には、社の森山頂部の拝殿に進まれると思いますが、拝殿奥の幣殿の両脇に上の説明紹介文で示したような、これまでの歴史を物語る石造の狛犬さんが座ってらっしゃいますので拝礼してあげて下さい。元々「松崎八幡宮社」に座ってらっしゃったもので、遷座の時由緒を示すものとして移ってこられたと云う事です。現在拝殿外に新しい狛犬さんが奉納されたとき拝殿奥の幣殿両脇に移設されました。来待石製の立派な狛犬さんですが,歴史を物語るかのように風雪でかなり痛んでいます。「御苦労様でした。」とでも言ってあげて下さい。
mats (2013/05/16) 変更・削除
全国の国府で国分寺の護りとして置かれたのが「石清水八幡宮社」で京都八幡市の「本社」は国史見在社で畿内22社、且つ「勅祭社」です。860年(貞観2年)鎮座。式内社より新しい有力社で武家も「源氏」が守護神として崇敬篤く庇護しました。当社由緒の「松崎八幡宮社」は京都の「本社」の別宮として所在し傘下に在った神社です。「安芸国国分寺跡」直近にも「石清水八幡宮」の分社が在り「国府社または総社」以外の国府域を示す神社の名残も有ります。片や「安芸府中」においては同系統の「松崎宮」が国府神社を標榜する「総社」
mats (2013/05/16) 変更・削除
を相手に「多家神正統社」論争を繰り広げた訳です。歴史の皮肉とも言える一事です。在庁官人家側は「平氏」一門の熱烈な崇敬を背景として隆盛を誇った「伊都岐嶋神社(厳島神社)」神官家と血縁の有る所在であり遡ると「安芸国造家」の1つ「佐伯氏」とも一族同士の関係に在った事が示されています。安芸国式内3社のうち佐伯郡(旧佐西郡)2社は「安芸国造家祖先神 飽速玉命(速谷神社祭神)と崇敬神 市杵島姫命(伊都岐嶋神社祭神)」を祀る関係に在ります。「多家神社」は此の2社の歴史の国造家祖先の祖先「安芸国開祖神 安芸津
mats (2013/05/16) 変更・削除
彦命[天湯津彦命(アメノユズヒコノミコト)の子息]」を祀っていますので、歴史としては先行して所在した古社であるのではなかろうかと考えます。「名神祭」の対象となる神々(名神)を祀る神社であります。名神祭は国家的事変が起こり、またはその発生が予想される際に、その解決を祈願するための臨時の国家祭祀である「名神祭式」に規定されます。平安時代後半に入ると、律令官制の衰退と退廃に伴って、勅祭奉幣も次第に範囲を狭めて平安京周辺に限られる様になって行き「名神大社」は「白河天皇の時代」1081年に畿内二十二社制度へと縮退されて行ったものと考えられ「名神祭」その物も次第に簡略化され神事が遅滞して行ったと思われます。
mats (2013/05/15) 変更・削除
「式内社」は全国で2861社3132座有りと記録に在りますが、当社起源の「上古~平安時代上期 多家神社(埃宮)」は「延喜式」「巻3 名神祭式」と「巻9・10 神名帳」双方記載の有る「名神大社」203社285座中に入っています。「神名目」「祭式」双方に定義された由緒正しい「名神大社」で在ったと云えると思います。先述通り、律令官制の完成と同時に衰退が始まった時期と「名神祭」畿内22社重視集約的奉幣が始まった時期、「上古多家神社」の記述が公式文書で欠した事期と「松崎八幡宮社」成立時期とが時系列的に整然と交差しています。「本宮」が畿内22社集約先「石清水八幡宮社」で「畿内名神大社格」を補う存在です。
mats (2013/05/15) 変更・削除
前史時代からの記述を由緒とする神社ですが、史実として意味の有る記述であると考える立場を採っています。上記①~⑫迄の出来事の内「安芸国」に近い所謂神話の類では、「⑤八俣大蛇伝説」等が有ります。須佐之男命が斐伊川の上流部分現在の出雲横田(JR芸備・木次線)付近で櫛名田比売を災難から護る話です。「八俣大蛇」とは「斐伊川」の氾濫洪水等負の側面を象徴して居たと思われます。毎年同じ様な時期に同様な箇所が決壊し、財産や人命が損なわれていた事を象徴的に示していたものでしょう。一方で農耕に肥沃な大地と用水をもたらす恵みの川でも在った訳です。この川の災害対策を須佐之男命が効果的に行った事が示されていると思います。
mats 古事記・日本書紀・時代記述について (2013/05/15) 変更・削除
広島県外に出て20年-30年技術とサイエンス分野の学業から職業分野へ進み過ごし、年齢を重ね戻って来た目で記述を見ますと、予め決壊頻発箇所8箇所に水門等を設置し遊水地を設けて突発的な増水を吸収し制御したものであろうと思われます。土木工学は職業領域とは無関係ですが、今日の科学技術分野では、一般的な統計数理解析手法である、スペクトル解析・スペクトル推定等の知識を用い、流域の降雨現象を有限な統計データ入力とし、河川流量に反映する様子を周波数領域で分析予測し、遊水地の容量と水門の制御方法等をシステム関数として決定して対策を講じています。此れに相当する洪水氾濫対策を須佐之男命が行い主導した事が象徴的に記されています。
mats 古事記の神話記述について (2013/05/15) 変更・削除
上述通り、当社が当地に遷座前「松崎八幡宮」時代の敷地は、昭和35年(1960)頃に町立「府中中学校」を低地中州(経免付近、現在の「本町1丁目」)からの移転開校先として宮の町5丁目が選定されました。此れに基づき、昭和38年(1963)前後に校地の造成工事が行われ9割9分以上「切り土」と「盛り土」により八幡2も埋立てられてしまいました。「宮の町5」「八幡1~2」街区の沢から平地部分も住宅団地や宅地化して現在に到っています。説明webは:
http://www2.town.fuchu.hiroshima.jp/www/contents/1351737624128/index.html
が判り易いです。松崎八幡宮跡には「神武天皇」着船上陸時の地点を示す史跡・遺跡部分だけが保存されています。
mats 当社遷座前・史跡・遺跡「松崎八幡宮跡」場所 (2013/05/15) 変更・削除
「松崎八幡宮」が京都八幡市の本宮、「石清水八幡宮」の「別宮」として処遇されて居た事は確かです。此の事は、本宮が畿内22社に列格する時、新興社で在りながら、他の畿内「名神大社」16社、 「神宮」(伊勢)と供に入って居る事に深く寄与していると考えられます。即ち、「本宮」が衰退局面の「上古多家神社」を傘下に収め、「松崎八幡宮社」としたのではないか云う事です。京で「名神大」相当の地位を得る際、「松崎別宮」が「名神大」の資格社として、「安芸府中松崎」の地に「八幡別宮」として在る事で、畿内22社で「勅祭社」の地位を「本宮」が得る事が出来たのではないでしょうか。?
mats 「松崎八幡宮」が「石清水八幡宮(京都)」の別宮と位置付けられたことの意味①(mats個人の解釈) (2013/05/15) 変更・削除
「石清水八幡宮」は「上古多家神社(松崎別宮)」の「Remote(遠隔)名神大」だったのではないか?と、解釈出来るのです。「遠方制御システムのネットワーク神社」の様な勝手な解釈で申し訳ありませんが、意外と理由として有り得る事ではないでしょうか?現代に於いては、大規模な「通信所(送信受信設備)の技術士・通信士や追跡管制局等系統制御資格者」等はMasterControl(制御局・中央制御所)に資格者が定められた人数充足して居れば各所、各設備毎に資格者を張り付けなくても良い事に成っています。「松崎八幡別宮社」の中に在ったと云う「たけい社」は「多家(神)坐社」と書けるのかも知れません。 
mats 「松崎八幡宮」が「石清水八幡宮(京都)」の別宮と位置付けられたことの意味②(mats個人の解釈) (2013/05/15) 変更・削除
此の場合、通常の中央←→末端の位置付けとは全く反対で、「MasterControlは「松崎八幡別宮(上古多家神社収容)」で在ったので、戦乱の中世を通じて栄えた神社たり得たのではないかと思います。「神領・免田」が認められて居ったと云っても高々20町余りの免田と俸禄を併せた位でした。上述で案内の規模の神社を明治維新まで700年に亘り維持して来れたのは全く偶然とは思えない物が有ります。本宮が畿内22社で得ていた社格と待遇を考えると、律令官制時代は「名神大(官大)」扱い本宮本社の「別格官幣大」相当社で在ったのではないでしょうか。?此の経過を辿っていれば、「上古多家神社」は現在迄連続です。
mats 「松崎八幡宮」が「石清水八幡宮(京都)」の別宮と位置付けられたことの意味③(mats個人の解釈) (2013/05/15) 変更・削除
同じ時期全国各地の「名神大社」も集約的奉幣の対象とされた訳ですから、「上古多家神社」に限らず、同本宮の傘下入りした名神大社も他に幾つか在ったのではないでしょうか。?同様に別宮として処遇されていれば、「石清水八幡本宮」がスポンサーとなって、各地の「名神大社」を集約して居たからこそ、新興の「国史見在社」にも拘らず、畿内22社内で神宮(伊勢)に次いで、上七社の筆頭として位置付けられて、列格して居った事等も納得出来ます。言い方は不適切かも知れませんが、京に程近い場所に出来た、「神社の名店街」、「名神大社のOneStop-Center」の様なイメージだったのではないでしょうか?
mats 「松崎八幡宮」が「石清水八幡宮(京都)」の別宮と位置付けられたことの意味④(mats個人の解釈) (2013/05/15) 変更・削除
「神武天皇聖跡顕彰碑」が「多家神社」正面鳥居から見て「社の杜:誰曽廼森」に上って「松崎八幡宮跡」方向南東側に少し下った場所「宮の町3丁目3番」に有ります。「松崎宮史跡」巡りの中間点ですので歩いて廻る事が出来ます。場所と説明はコチラで→
http://ryobo.fromnara.com/palace/p001-3.html
「顕彰碑」前を南向き(府中中学校方向)へ一本道で進むと県道84号「宮の町5丁目」交通信号の広い道に出ます。此処を右折し道なりに下ると「宮の町4丁目」の交通信号に出ます。此処を左折し再び上り坂右曲がりの左手側に丘陵部と玉垣が見えますと「松崎八幡宮跡(極一部)」に到着します。
mats 史跡「神武天皇聖跡顕彰碑」と史跡「松崎八幡宮跡」位置関係 (2013/05/15) 変更・削除
「松崎八幡宮跡」巡回後は前の道を其の侭下り、「宮の町4丁目」交通信号を今度は直進して西に向かうと県道151号線に突き当たります此処を右折し道なりに進むと、平坦地の侭県道151号線起点(終点)、多家神社前(社の杜下一の鳥居前)に着きます。当社「社の杜 本殿」参拝経路の出発点に戻って来る環状の巡回経路となっております。

「総社跡」には現状で史跡・遺跡は無いです。旧社地も狭く現状は街区公園です。地区住民の集会所が神社風の建物として建てられて居ります。巡回道順は、当社前、「榎川」の北側道路を東に向かって6分(500m)歩くと左手側に在ります。
mats 男 松崎別宮跡巡回順路 総社跡順路 (2013/05/15) 変更・削除
※口コミ・紹介文は投稿時点のものであり、現時点とは異なっている場合があります。
会社名 多家神社(埃宮)
読み方 タケジンジャ エノミヤ
住所 広島県安芸郡府中町宮の町3丁目1-13
電話番号 0822822427
カテゴリ 神社
近くの駅 天神川駅(山陽本線)徒歩15分、矢賀駅(芸備線)徒歩20分
広島駅(山陽本線)広電バス「府中山田」行き20分「埃宮」下車1分
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多家神社公式ホームページです。由緒縁起、境内説明、祭事、神事等の説明が在ります。そうき阿岐(安芸)国 式内社 延喜式名神大社(後裔社)上古代の創祀と伝わります
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